novembre 2008アーカイブ

トラスティベル ~ショパンの夢~ トラスティベル ~ショパンの夢~ Xbox 360 プラチナコレクション

Xbox 360 初のアニメ調 3D RPG、ということでヒットを見込んで大量に仕入れたら、大量に売れ残ってしまったのだろうか。2007年6月の発売から3ヵ月後、Amazon.co.jp にて半値以下で投売りされていた哀れなゲームソフトが、この『トラスティベル ~ショパンの夢~』である。ちなみに現在(2008年11月)の Amazon.co.jp での売値は普通の価格に戻っている。

発売元はバンダイナムコゲームスだが、制作はトライクレッシェンド。トライクレッシェンドは元々コンピュータ・ゲーム中の音楽制作の下請けを主に手がけてきた会社で、本作は初の自社作品だという。音楽制作会社らしく、本作では音楽をモチーフにした物語が展開される。

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Blade Runner ( Five-Disc Complete Collector's Edition )

『 Blade Runner ( Five-Disc Complete Collector's Edition ) 』は、1982年に公開された SF 映画の傑作『ブレードランナー』の北米版 Blu-ray Disc である。

『ブレードランナー』がどんな映画かは、語りだすと長くなるので敢えて説明しない。
傑作だから観て下さい。
以上。

さて、『ブレードランナー』のファンなら既知のことだが、『ブレードランナー』には様々なバージョンがある。

  • ワークプリント版(1982年)……本公開前に観客の反応を見るためのテスト版
  • 初期劇場公開版(1982年)……アメリカで最初に商業上映されたバージョン
  • 国際版(1982年)……ヨーロッパや日本で上映されたバージョン
  • ディレクターズカット版(1992年)……10周年記念バージョン
  • ファイナル・カット版(2007年)……25周年記念バージョン

これらを全て収録したのが、『 Blade Runner ( Five-Disc Complete Collector's Edition ) 』なのだ。

何故北米版かというと、5つのバージョンを全て収めた BD は日本で発売されていないからである。
2008年に入ってからようやく日本で発売された BD は、ファイナル・カット版のみの収録となっている。
2007年、5つのバージョンが収録された DVD 版が日本で発売されたが、1万セットの限定生産で、希望小売価格24,800円という高価なものだった。
しかし、北米版 BD は希望小売価格が39.99ドルである。
私は Amazon.com で発売3ヶ月前の2007年9月から予約して北米版 BD を購入したが、本体27.95ドル、送料5.98ドルで計33.93ドルだった。
1ドル120円として計算すると、33.93ドルは4,071円である。
何という安さ!
そして DVD と BD で画質・音質ともにどちらが優れているかといえば、圧倒的に BD だ。
ならば DVD を買う必要はない。
DVD と違って、BD は日本のプレイヤーでも北米版を問題なく再生できる。
メニューや字幕も、ファイナル・カット版のみではあるが、日本語を選べるようになっている。
大体、5つのバージョンを見比べるなんてコアなファンしかやらないし、コアなファンなら字幕なんかなくても人物が何を言ってるか判るんだから全く問題ない。
残念なのは、特典として付属しているメイキング・ドキュメントに日本語字幕がついていないことだが、どうしても日本語字幕で観たければ日本で発売されているファイナル・カット版の BD (5,000円もしない)を買えば済む。

本題に入ろう。
私は国際版の LD とディレクターズ・カット版の DVD を所有していて、その二つの内容は知っている。
まだ観ぬ残りの3バージョンのうち、一番観たかったのはワークプリント版だった。
何故か。
『ブレードランナー』といえばコレ、という有名な台詞「二つで充分ですよ!」。
だが一体何が二つなのか映像にないため、謎だった。
しかしワークプリント版では、その「二つ」の映像がカットされておらず正体を確認できるというのだ。
「流出した海賊版」と称する怪しげなビデオのスチル写真によれば、それは海老だという。
本当なのか。
ついに公然とベールを脱いだ「二つ」とは――
確かに、丼の上に乗っかった茄子のような海老のようなどす黒い物体であった。
こりゃ確かに二つで充分、というか不味そうだから一つでも要らんわ。
胸のつかえが取れたので、これだけで満足。

とはいえ、ファイナル・カット版も素晴らしい。
もともと、『ブレードランナー』の特撮シーンは65mmフィルムで撮影されたのだが、上映時に35mmフィルムにダウンサイジングされている。
しかしファイナルカット版ではオリジナルの65mmネガから直接マスターが作られているので、BD の HD 画質もあいまって、ヨダレが出そうなほど美麗な映像を堪能することができる。
例えば、冒頭のシーンにおいて、タイレル社のビルは圧倒的存在感を持って輝き、部屋に立つ検査官も映っている。
35mmフィルムで撮影されたシーンでも、アップになったハリソン・フォードの胸毛の一本一本やショーン・ヤングの手の産毛の一本一本、女優たちの顔の毛穴まで確認することができる。
映像のリファインのほかにも、いろいろと細かく変更がされていて、台詞とストーリーの矛盾の解消、いくつかのショットと台詞の追加、映像のミスのコンピューター修正などが成されている。
また、特典として、リドリー・スコット監督やスタッフによる音声解説が付属している。
もちろん、日本語字幕つきだ。

残念ながら、本編の日本語字幕の誤訳は相変わらず修正されていない。
一言一言区切って喋ってくれるので、私の拙い英語力でも聞き取れるクライマックスシーン。
ロイが" I watched C-beams glitter in the dark near the Tannhäuser Gate. All those moments will be lost...in time...like...tears...in rain. Time to die. "と語る。
字幕では、「タンホイザー・ゲートのオーロラ そういう思い出もやがて消える 時が来れば―― 涙のように 雨のように その時が来た」となっている。
" C-beams "云々はアドリブの台詞らしいので謎だがオーロラじゃない何かだろうし、「涙や雨のように消える」という比喩はわけが判らない(「雨の中の涙のように」という訳が正しい)。
レプリカントが避けようと拘り続けてきた「死」の場面なのに訳に反映されていないのもよろしくない。

それはともかくとしても、この『 Blade Runner ( Five-Disc Complete Collector's Edition ) 』は『ブレードランナー』のファンなら是非入手しておきたい一品だ。
BD プレイヤーや HD ディスプレイを持っていないなら、この際買ってしまおう。

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22 novembre 2008

DVD 『エコール』

エコール

『エコール』( Innocence )は2004年に制作されたフランス映画。
映画館に置かれていたフェティッシュなデザインのチラシを見て「これは当たりかも」と注目していたのだが……映画を観てみたら、児童ポルノに片足を突っ込んだような作品だった。

題名が原題をカナ表記した『イノセンス』でないのは、押井守監督のアニメ映画と被るからだろう。
「エコール」とはフランス語で「学校」という意味。

物語は、どこからか連れられてきた少女(というより幼女)が棺桶から目覚めるところから始まる。
目覚めた場所は、人里から離れた森の奥にある学校。
生徒は思春期前の少女ばかり。
大人は女性教師と老いた女中だけ。
男がいない。
授業内容は生物とダンスだけ。
冒頭の少女は学校の新入生として生活を始める。
そして少女たちの生活模様や脱走事件なんかが描かれていき、終盤に学校の目的が判るという粗筋になっている。

少女の無垢性、神秘性とともに、肉体の成長に伴う心の変化を描いていることはすぐ判るのだが、首を傾げたくなる描写が目立つ。
例えば冒頭の少女の目覚めのシーン。
少女はパンツ一丁で、体を隠そうともしない(それくらい幼い)ので裸体が露骨に映し出される。
裸イコール生誕のメタファーなんだろうけど、ヨーロッパの国って少女の裸体が映るのには厳しいイメージがあったのによかったのか。
しばらく進むと少女たちの水浴びのシーンがあって、ここでも少女が堂々とパンツ一丁になる。
こうも露骨だと無粋だ。
ミニスカートから伸びる少女の脚が強調されてて、少女が地面に倒れても下着が見えそうで見えない……ってカットがあるから、監督も線引きを判ってるはずなんだが。
「少女の裸体が映っただけで反応する奴はロリコンだバーカバーカ」ってな感じで皮肉を込めているのか、女優の濡れ場のように興行的な意図があるのか。
あるいは、男性の目が存在しないために、自らの肉体が性的な意味を持っている(あるいはこれから持ち始める)ということに無頓着で過ごしている少女の有り方を描こうとしたのかもしれない。

白で統一された少女たちの衣服、森の緑、リボンの色のアクセントといった色彩感覚。
そして閉ざされた森の中にある19世紀風の洋館というミステリアスな雰囲気は好ましい。
ギムナジウムものの少女マンガの少年を幼女・少女に入れ換えたような感がある。
しかし、裸体を抜きにしても少女たちは肉体の生々しさが終始表現されている。
女性監督だけに、少女性に過剰な幻想を与えず現実的な感覚を保っているからだろうか。

観客にダンスを披露する際、蝶の羽を身につけるところを見ると棺桶は卵、学校生活は幼虫、ダンスの披露は羽化のメタファーということになろう。
卒業を迎えた少女が地下道を通って外に出るのは出産のメタファーで、外に出た少女が遭遇する噴水と少年は性交のメタファーだろう。
象徴性を散りばめているけど、安直というか、判りやすいというか……。

少女の裸体とか官能性に反応してしまうのは私が男性だからで、女性が観れば抵抗なく受け入れられる程度のものなのかもしれない。
とはいえ、少なくとも私にとっては、耽美的な作品と捉えるには中途半端だと思った。

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22 novembre 2008

「ヤシガニ」10周年

10周年、といえば「ヤシガニ」事件からも10周年なんですね。

「ヤシガニ」事件とは、1998年に放送されていた TV アニメ番組『ロスト・ユニバース』の第4話「ヤシガニ屠る」で、放送に耐えない劣悪な質の映像が放送されてしまったという事件です。
以降、TV アニメ番組における劣悪な作画の代名詞として「ヤシガニ」という語が使われるようになりました。
詳細は「ヤシガニ屠る」で Web 検索すれば初回放送時の画像写真や動画記事を見ることができます。

どのように劣悪なのか簡単に紹介すると、

  • キャラクターのデッサンが基本デザインからかけ離れて別人のようになっている
  • 絵の枚数が極端に不足しカクカクしている
  • 描かれるべき人物や物体が描かれていない
  • 絵の陰影が省略されて立体感がない

といった感じ。

視聴者の多い18時半からの放送だったことと、Web の普及が進んでいった時期だったことが災いして大きな事件として記憶されることになったんでしょう。
私も『ロスト・ユニバース』を本放送で観たことは1度もなく、Web サイトで知った口です。

何でこんなことになったのかというと、ただでさえ劣悪だったアニメ制作の現場環境が、『エヴァ』ブーム後のアニメ制作バブルの影響で更に悪化し、制作スケジュールが破綻を来たしたからと言われています。
フルデジタル制作による効率向上と外注先の海外アニメスタジオが力をつけたことで、業界は騙し騙し存続しているようなんですが。

ところで、「ヤシガニ」事件の翌年である1999年には『ガンドレス』( GUNDRESS )が業界とアニメファンを震撼させました。

『ガンドレス』は東映系で全国劇場公開の SF アニメ映画だったのですが、制作が上映に間に合わず、未完成な絵が散りばめられた状態で上映されるという椿事になったのです。

デッサンの崩壊自体はほとんどないんですが、

  • 背景とセルがずれてるカットがある
  • 所々で台詞や効果音と映像がずれている
  • 歩いているはずの人物が動いておらず、平行移動に見えるカットがある
  • 発射されたロケット弾が動いていないのに次のカットでは目標に着弾している
  • 人物や物体が線画に一色で塗っただけのカットが頻発する
  • 絵の枚数が足りず動きがカクカクになるシーンがある
  • カットの露骨な使いまわしがある

などという始末。
制作サイドは入場者のうち、希望者に完成品のビデオテープを無料送付するという形で対処したのでした。

後に DVD に収録された『ガンドレス』の特典として未完成バージョンが添付され、それが Web に流出し今なおこうして語り継がれるに至っています。
私も上映当時は『ガンドレス』の存在すら知らず、事件のことを知ったのは数年後。
最近になって未完成版を観ましたが、あまりの酷さに「コメディ映画でもこれだけ笑わないぞ」というくらい笑ってしまいました。
制作サイドからすれば、この未完成版に至るのですら悲惨な努力があって、笑うどころではないのでしょうけど。

『ガンドレス』において切ないのは、絵がちゃんと出来上がっていたとしてもつまらない凡作だったというところ。
近未来の都市で、美女5人がパワードスーツに身を包み、テロリストに立ち向かう――という新鮮味のない設定。
その美女5人がどいつもこいつも魅力に乏しい。
『 GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』の4年後の作品なのにチープな電脳世界の描写。
ストーリー展開も盛り上がりに欠ける。
そりゃ未完成での上映という失態をネタに売るしかないよな、と納得しました。

詳細は「これがガンドレスだ」「伝説の未完成映画」を参照して下さい。

作画崩壊アニメの系譜については、「同人用語の基礎知識」の「ヤシガニアニメ/ヤシガニ屠る/ウニメ」が詳しいです。

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CROSS CHANNEL クロスチャンネル ~To all people~ 通常版

ノベル型アドベンチャーゲーム『 CROSS†CHANNEL 』を自己言及的メタフィクションとして解釈してみる。
ネタバレなので、プレイしていない人は読まない方がいいかもしれません。

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20 novembre 2008

ホラー映画の記憶

ちょこちょこと映画を観てきて DVD も沢山溜め込んできた我が人生だけど、やはり苦手なジャンルってのがある。
例えばアングラなスナッフ・フィルムとかスカトロものとか。
想像するだけで気持ち悪すぎて観ようとも思わない。
それはまだしも、一般向け作品でもなかなか観ないジャンルがある。
それはホラー。

本質的に臆病なもので、「明らかにこれから怖いシーンが来ますよー」って空気に耐えられないんだな。
サスペンスものやミステリーものは平気なんだけど。
そういうわけで、女の子とホラー映画を観に行って、怖さのあまり女の子が手を握ってきたり抱きついてきたり……というラブコメでありがちなシーンとは、とんと無縁なのであった。

で、今まで全編通して観たことのある数少ないホラー映画の記憶を辿ってみた。

『バタリアン』

バタリアン

1985年のゾンビもの映画。
B 級臭いけど、タイトルをもじった『オバタリアン』なんてマンガがヒットしたくらいだから興行成績はよかったんだろうか。
コメディっぽさもあってあまり怖くない。
しかし物語途中で復活するコールタールまみれのゾンビは幼心に印象に残った。
ラストシーンの影響で、火葬場に行くたびに「自分が生きたままこの中に入ったら……」って考えてしまうし。

『シャイニング』

シャイニング 特別版 コンチネンタル・バージョン

1980年の映画。
スタンリー・キューブリック監督作品。
ホラーというよりサイコスリラーかな。
不気味なシーンがいっぱいあるのに怖いとは思わなかった。
キューブリックの映像美を味わう作品のような気がする。
ジャック・ニコルソンはハマリ役だったな。
ちなみに、この作品で撮影されたカットが『ブレードランナー』で流用されている。

『ジョーズ』

ジョーズ

1975年の映画。
サメが船にまで乗り上げてきてそのツラを拝んでみたら、意外と可愛かった。
実際に現場に居合わせたらそんなこと言えないんだろうけど。
そのサメに人間が食いちぎられるグロいシーンがあるし……。

『鳥』

鳥

1963年の映画。
アルフレッド・ヒッチコック監督作品で観たことがあるのはこれだけ。
物語としては、鳥が大量に集まって人間を襲うだけだったような記憶が。
鳥の異変の理由が結局判らずじまいなのが不気味。

『アタック・オブ・ザ・キラートマト』

アタック・オブ・ザ・キラー・トマト スペシャル・コレクターズ・エディション

1978年の映画。
カルトなバカ映画としてある意味有名。
『鳥』を引用してホラー映画の体裁を採ってるけど、実際はギャグだろう。
トマトが大量に集まって人間を襲うという筋書き。
しかし特撮なんてものは一切なく、トマトが実際に人間を食らうところは画面に映らない。
登場人物がトマトを見て勝手に怯えたり叫んだりしているだけ。
動くトマトは単純に転がってるだけだったり、トマトを動かしている台車が映り込んでいたり、倒れてる人間に投げやりなコマ撮りでトマトを乗せているだけだったりとチープさ満点。
怖さではなく、下らなさすぎて最後まで観るのが苦痛になる。
さすがに続編の『リターン・オブ・ザ・キラートマト』は途中で観るのを断念した。

そういえば映画ではないけど、今から20年ほど前、夏休みに読売テレビのお昼のワイドショー内のコーナーとして放送されていた短編ドラマ「あなたの知らない世界」が怖かった。
実際にあった心霊現象、怪奇現象の再現ドラマって触れ込みの作品で、兄が好んで観ていて一緒に観る羽目になったんだっけ。

ホラーを意図して作られていたわけじゃないだろうけど、その近辺で放送されていた蒸発者の公開捜査コーナーも怖かったな。
解像度の低いモノクロのスナップ写真が、巨大に引き伸ばされて背景になってて……。
ナレーションも無機質で不気味さを引き立てていた覚えがある。
同様の雰囲気があるからか、古い左翼系テロリストの指名手配写真も苦手。
近年の公開捜査番組にはあの怖さがなくて、ちょっと寂しい。

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19 novembre 2008

DVD 『スティング』

スティング

1973年のアカデミー賞作品賞受賞作、『スティング』( The Sting )。
有名な映画だけど、ギャングの抗争と刑事の捕り物的な話だと何故か誤解してて、長い間観てなかった。
いつだったか、観終わったとき、もっと早く観ておくべきだったと後悔したのを覚えている。

物語の舞台は第二次世界大戦前くらいのアメリカの都市。
詐欺で生計を立てている若者が主人公で、ある日彼が詐欺の師匠と共に路上で男を騙して所持金を奪い取るのだが、その金はマフィアの売上金だった。
そのことがマフィアのボスの逆鱗に触れて、主人公の師匠は殺されてしまう。
復讐に燃える主人公は、今は落ちぶれているが伝説の詐欺師と呼ばれている男を尋ねる。
そして彼らはコンビを組み、復讐のためマフィアのボスに一世一代の大イカサマを仕掛ける、というお話。

イカサマがいつバレるのか、ハラハラドキドキの連続で観客を飽きさせることがないうえ、最後に大きなどんでん返しを起こし、観客すらも騙していたことを明かす。
マフィアが絡んでも暗さがなく、観終わった後の後味は爽やか。
派手さはないのに、「映画は娯楽の王様」という言葉が良く似合う、痛快で見事な娯楽映画だ。
メインテーマ曲「ジ・エンターテイナー」の軽快なメロディーがまた映画にマッチしている。
映画がヒットしたおかげでリバイバルヒットした、という話も納得できる。

ユニバーサル映画が製作した作品ということもあって、本作に登場するイカサマ賭博場の建物を再現したセットが USJ にあるのだけど、USJ に行った後で映画を観たので、知ってる場所がロケ地に使われているかのようでちょっと嬉しかった。
横丁といった感じで、何も知らなきゃ素通りしがちな地味なところ。
確かニューヨーク・エリアのあたりにある。

それはさておき。
『スティング』は幅広い人が楽しめる、まさに不朽の名作だ。
「詐欺師がハッピーになるなんて許せない」なんて堅物な人じゃない限り、満足できるはず。

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ビクトル・エリセ DVD-BOX

紀伊国屋書店からビクトル・エリセの『ミツバチのささやき』と『エル・スール』、さらにデビュー作の短編『挑戦』を収めた DVD-BOX が2008年12月に発売されます。

監督本人が監修した HD ニュー・リマスターだそうな。
だったら Blu-ray で出してくれよと思うんだけど……。
それに、中古価格で3万円とかアホみたいな値段がついてて容易に手を出せない『マルメロの陽光』も収録して欲しかった。

しかし従来の東北新社版『ミツバチのささやき』は別物のように画質が劣悪らしいので、画質の向上という点では期待できそうだ。
それに版元が紀伊国屋書店だから、急いで買わなくても在庫切れによるプレミアム化の心配がなさそう。

参考

ビクトル・エリセ『ミツバチのささやき』DVD画質比較 完全版

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18 novembre 2008

DVD 『ピクニック』

ピクニック

19世紀後半に活躍したフランスの画家ルノワールは有名だけど、その息子が映画監督だということはどれだけの人が知ってるだろう。
今年、ルノワール親子の作品を併置した展覧会が東京や京都で開かれていたので、それで初めて知ったという人も多いかもしれない。

『ピクニック』( Une Partie de Campagne )は映画監督のジャン・ルノワールが1936年に監督を務めた映画。
天候に恵まれず撮影できないシーンが残ったままでフィルムが放置されていたのだが、映画プロデューサーが発見し、編集して1946年に完成させたといういわくつきの作品だ。
舞台は19世紀のフランス。
パリに住む一家がピクニックを楽しむため、馬車に乗って川の流れる田舎までやってくる。
一家の娘の婚約者も同行しているのだが、娘はその地で男と出会い、二人は恋に落ちる。だが雨に邪魔されてしまい、娘は帰ってしまう。
数年後、男は再び娘に出会うのだが、娘は既に結婚していて、男は恋が実らなかったことを知る――という40分弱の短編。
中断・再会・完結、という点で奇しくも男女の恋と映画作品そのものが合致していて、因縁めいている。

自然風景の美しさや恋の喜びを満喫する若い女の描写が見もので、物語よりも映像を味わうための作品だと思う。
DVD のパッケージのスチル写真にもあるように、娘がブランコに興じるシーンがあり、父ピエール=オーギュスト・ルノワールの代表的な作品「ぶらんこ」へのオマージュを感じさせる。

映画マニアなら押さえておくべきだろう一品。

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17 novembre 2008

JAXA から採用通知

JAXA (宇宙航空研究開発機構)が打ち上げを予定している温室効果ガス観測技術衛星( GOSAT )の愛称を公募していたのだけど、私の応募した命名案「いぶき」が見事選ばれました。

「 JAXA|温室効果ガス観測技術衛星( GOSAT )の愛称募集結果について」

応募したことすらすっかり忘れていたところに、JAXA から「名付け親」の認定証と記念品が送られてきて選考結果を知った次第。
一枚紙ではなく布張りのアルバムになっていて、結構立派であります。
記念品はハーブ栽培キットです。

締め切り直前に新聞で公募のことを知って、何故だかすぐに応募したんだっけか。
「いぶき」を提案したのは応募総数12683件中、630名とのこと。
さすがに打ち上げ当日の種子島宇宙センター無料招待の抽選には外れたけど、名付け親の一人になれたのは素直に嬉しい。

あとは打ち上げの成功を祈るのみ。
「風の息づかいを感じていれば」、大丈夫でしょう。

「いぶき」とくるとつい「マヤ」と連想してしまうけど、何を連想するかでその人の世代や属性がバレそう。
「八神」とか「風子」とか「吾郎」とか。
「文明」も記念に宇宙産業への予算配分に貢献してくれないかなあ。

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雑誌連載版『 serial experiments lain 』

lain‐安倍吉俊画集 yoshitoshi ABe lain illustrations

アニメ雑誌の「 AX 」にTV アニメの放送に先駆けて1998年の3月から連載が始まり、同年11月に連載が終了した企画。キャラクター原案や『 lain 』各商品のパッケージイラストを手がけたイラストレーター安倍吉俊がイラストを担当し、アニメ版の脚本家小中千昭がテキストを担当。アニメ版の世界観を伝えると共に、PS 版との橋渡し的な意図も込められている。

安倍吉俊のイラストは精密な描写とアニメチックでない重厚な色彩感覚が素晴らしい。私の個人的なお気に入りは、アニメ版本編で描写が簡略化された紅茶のシーン。最終回で孤独になった玲音が、幻想の中で父の幻影(=神?)に紅茶とマドレーヌを振舞われ、その優しさに嬉し涙を流し、現実世界への愛情を見出す。記憶を巡る物語である Marcel Proust の『 A la recherche du temps perdu 』に対するベタベタなオマージュである。

1998年に出版された公式画集『 an omnipresence in wired 』と2005年に出版されたその復刻版『 yoshitoshi ABe lain illustrations 』に収録されている。

安倍吉俊の絵に魅せられたなら、彼自身が原作・キャラクターデザイン・脚本を務めたアニメーション作品『灰羽連盟』(2002年)をオススメする。2007年に廉価版 DVD-BOX が発売されて、入手しやすくなった。生と死の狭間の世界に、人でも天使でもない「灰羽」という存在として生まれ変わった少女たち。そんな彼女たちの出会いと別れを描いた、珠玉の物語だ。

灰羽連盟 TV-BOX

10年経って

この10年でも PC やネットワークの構造、ユーザーインターフェースなんかは根本的な変化がないので、10年前の作品といっても SF 描写に古びた感じが全然しない。目に付くのは CRT モニタやアクセラの設定(ベース・クロックが 100MHz )くらいのものだ。逆に、小中学生が電子メールやネットワークゲームを日常的に利用しているという設定は、1998年当時としては新鮮味があっただろうが、現在では SF ではない日常の風景と化している。CG の活用も、現在の製作環境では物珍しくない。

作風でいうと、アニメの世界では虚実の境界を曖昧に、という点やメタフィクション的演出では今敏の仕事が思い浮かぶ。コンピュータ・ネットワークに宿る幻想をモチーフにしている物語だと、PC ゲームの『最果てのイマ』あたりだろうか(未プレイなので噂話程度にしか知らない)。

PS 版『 lain 』と同様のシステムを持ったゲーム作品は聞かない。サスペンスやホラーといったジャンルには親和性の高いシステムだと思うが、ゲーム性が低い上にマルチエンディングによるボリュームの増大ができないので追随できないのかもしれない。ノベル型作品だが、『ひぐらしのなく頃に』の TIPS システムや「カケラつむぎ」のように、情報の断片化と統合という面で演出の一環として補助的に使用している例はある。

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PS 版『 serial experiments lain 』

serial experiments lain

TV アニメ版『 serial experiments lain 』の首都圏での放送が終了した1998年11月、プレイステーション( PS )用ゲームソフト『 serial experiments lain 』が発売された。ただしゲーム版の企画・シナリオにも参加している小中千昭によれば、PS 版の製作は TV アニメ版よりも先行して着手されており、TV アニメ版が製作されるかどうかは確定的でなかったという。

TV アニメ版とゲーム版で題名は同じ。岩倉玲音という名の少女が登場し、彼女を清水香里が演じているのも同じだが、玲音以外の TV アニメ版の登場人物はほとんど登場しない。一つのシークエンスとして明確に描写される物語も存在しない。

そもそもこの作品がゲームソフトなのか、という疑義も存在する。インタラクティブ・コンテンツと言うべきかもしれないが、ノベル型アドベンチャーゲームがゲームと呼べるなら、この作品もゲームなのだろう。版元のパイオニア LDC は本作のジャンルを「アタッチメント・ソフトウェア」と称しており、同種の名称が冠されたソフトウェア作品に同社の『 Noël 』シリーズがある(但しゲームシステムもテーマもかなり異なる)。

プレイヤーが自分の名前を入力してゲームを始めると、縦の円筒状の空間に、数百個のデータの断片が配置されている。プレイヤーが架空のオペレーション・システムを操って、コンピュータ・ネットワーク上のデータを再生(プレイ)する、という設定だ。データの再生の順序は任意だが、特定のデータが再生済みでないと再生できなかったり、本作を結末まで何度かプレイしないと再生できなかったりする。プレイ状況次第で新たに出現するデータもある。説明書によれば、円柱の下層ほど過去に近く、上層ほど現在に近いデータであるとされている(しかしそれが正しいかどうかは保証の限りではない)。何も操作せずに放置していると再生されるデータというものも20種類ほど存在する(これがまた、トラウマになりそうなほど不気味だ)。

それらのデータの内容とは、主に次のようなものである。

  • 女子小学生(のち中学生)である岩倉玲音の日記(音声のみ)
  • 研究所の新人女性研究員で精神科医である米良柊子の日記(音声のみ)
  • 玲音と柊子のカウンセリングにおける会話(音声のみ)
  • カウンセリング結果レポート(音声のみ)
  • アニメーション動画(TV アニメ版とは内容や画風が異なる)

その他、システムのアップデートプログラム、柊子と玲音の友人の会話(音声のみ)や警察の捜査記録(音声のみ)、記者会見の記録(音声のみ)といったものがある。

プレイヤーがゲーム内でできるのは、セーブやゲームの終了といったメタ操作を除けば、データの断片を再生していくこと、ただそれだけ。自ずと作品の全体像の把握が目標となるだろう。

上記でしつこく「音声のみ」と書いているように、この作品では一般的なアドベンチャーゲームとは違って会話や叙述は文章として表示されることがない。プレイヤーが内容を理解しようと思えば、音声をスキップすることなく耳を傾けざるを得ない。

だが、プレイヤーが内容を理解しようとデータの断片を記憶・整理・再生すればするほど、細部が明瞭になっていくのに反して全体像が曖昧になっていく。当初はプレイヤーはこう思うはずだ――幻覚・幻聴に悩む内気な少女が、何かの研究所でカウンセリング療法を受けている、と。しかし少女はハッキングと精神医学の知識をメキメキと身につけ、逆にカウンセラーの精神はどんどん脆くなっていく。カウンセリング結果レポートは二人の音声が交錯するようになり、カウンセラーが少女の治療を行っているのか、少女がカウンセラーの治療を行っているのか判然としなくなる。二人の日記の記述と会話の内容に矛盾が生じ始め、虚実が入り混じる。二人の日記に登場する人物は果たして実在したのか? アニメ版と同様に、客観的な正しさは存在しない。あらゆる結論はプレイヤーに委ねられている。

特定のデータを再生すると、再生したことのあるアニメ動画が1本に連結されて再生される。そして玲音の最後の行動を記録したアニメ動画が続き、本作は一応の結末を迎える。条件が満たされていれば、画面に玲音の顔が浮かび上がり、プレイヤーの名前を呼んで語りかけてくる。その言葉と、アニメ動画での玲音の行動を重ね合わせれば、こう考えることができるだろう――玲音はプレイヤーの脳内にダウンロードされ、プレイヤーの記憶として存在し続けるのだと。「記憶とは記録に過ぎず、自我とは記録されたデータの集積の一側面に過ぎない」という論理がそこにはある。データとしてフラット化した玲音は、もはや物事の虚実や自我の同一性・単一性に悩まされることがない。

重要なのは、アニメを視聴する場合とは違って、ゲームでは「プレイヤーによる操作」という能動的かつ積極的な行動が求められていることである。だからこそ、プレイヤーはより作品世界に接近し、境界を侵犯し、作品世界に結合する。あたかも、神秘主義の宗教のように。プレイヤーの精神の安定は揺さぶられ、単調な BGM がそれを加速させる。それゆえに「精神を病むゲーム」とも称される。

本作に物語があるのだとすれば、それはプレイヤーが参画し、データの断片からプレイヤー自身の意識の中に作り上げた物語だ。物語の主人公は玲音ではなく、プレイヤー自身である。小説でも映画でも表現できない、コンピュータ・ソフトウェアでのみ実現できる物語だ。

残念なことに、本作は TV アニメ版とは違ってもはや中古市場でしか流通していない。私が何年も前に入手したときは、5800円の新品定価に対し、中古ソフト店で8000円程度の価格がつけられていたと思うが、今や概ね1万円から2万円程度の範囲内で取引されているようだ。版元がゲームソフト事業から撤退しているのと、CERO による倫理審査前に発売された作品で現在の倫理審査をパスできるのか不明瞭なことから、PlayStationStore によるダウンロード販売も望み薄である。

ロシアの『 lain 』ファンサイトに CD-ROM のイメージファイルらしきものがアップロードされているようだが、権利者の許諾を得ているかどうかは極めて怪しい。なお、正規にイメージ化した ROM は PS エミュレータ「 ePSXe 」では動作させることができなかったが、「 XEBRA 」では動作した。本作の動画・音声データはデータ形式が特殊らしく、「 PSxMC 」では未だにリッピングできない。

参考リンク

[game]PS版 serial experiments lain
http://materia.jp/blog/20051107.html#p02
悪夢のダウンロード~「serial experiments lain」がプレイヤーに与えるもの
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/sawa/lain.html

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そういえば、『 serial experiments lain 』が世に出てから今年は10周年にあたる。

『 serial experiments lain 』とは何かというと、TV アニメ・ゲームソフト・雑誌連載を連動させたメディアミックス企画で、その名の通り「連続」( serial )的で「実験」( experiments )的な作品だ。

その内容を敢えてジャンル分けするなら、近未来 SF とサイコサスペンスとファンタジーの混合物とでも言おうか。

作中に登場する企業ロゴをこのサイトのアイコンに使わせてもらってるほど好きな作品で、DVD (北米版を含む)や音楽 CD 、公式画集やシナリオ本といった関連商品を買いあさったものだ。10周年という節目に語ることは私にとって最低限の義務かもしれない。

『 lain 』のテキストや脚本を手がけた小中千昭によると、企画が動き出したのは1996年の末頃のこと。その前年には阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件が起き、TV アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の放送が始まった。1996年は『エヴァンゲリオン』の放送が終了し、マスコミを巻き込んで「エヴァ・ブーム」が起ころうとしていた。閉塞的な雰囲気が漂っていた社会状況で生まれたそれらの事件から、精神世界への関心が高まりを見せていた。その一方で、携帯電話、 PC、Internet 、マルチメディアゲーム機といった情報機器が急速に普及し始めていた。そんな時代だからこそ『 lain 』の企画が生まれ、商業展開に至ったと思われる。

情報技術の発達に伴う社会と個人のボーダーレス化、経済のグローバル化という時代の変化をなぞるように、あるいは変化を予告するかのように、『 lain 』は「境界の破壊と結合」という実験を行った。

TV アニメ『 serial experiments lain 』

serial experiments lain TV-BOX

TV アニメ版の『 serial experiments lain 』は1998年の夏から秋にかけて深夜に放送された(私の住んでいた大阪では放送が翌年にずれ込んでいたと思う)。

1998年というのは、『エヴァンゲリオン』のヒットを受けてアニメブームが起き、 TV アニメ作品のビジネスモデルが大きく変わり始めた年だ。ロボットアニメや魔女っ子アニメのように、おもちゃ会社が作品に関連して制作するおもちゃの売上げによってアニメ作品の製作資金を回収するのではなく、作品を収録したビデオテープや DVD の売上げを中心としてアニメ作品の製作資金を回収する。それと併せて作品のマンガ化やゲーム化、グッズ化を進め利益を得る。マンガ作品やゲーム作品がアニメ制作の出発点であることも多い。そのために放送権料が安い深夜の時間帯にアニメ作品を TV 放送し、一連のコンテンツを宣伝するのだ。深夜放送ゆえの表現規制の緩さもあいまって、性表現、暴力表現、難解な物語性、難解な映像表現などを有したマニア向けの作品が多く作られるようになる。同時に、マンガ作品のアニメ化が安易に展開され、アニメ作品の粗製濫造が進んでいく。TV アニメ版の『 lain 』は、現在に至るまで続くその流れの初期に生まれた作品である。

物語の舞台は、コンピュータ・ネットワークによる情報流通が発達した近未来の東京。しかし現代の東京と比べても大して変わりはない。自動車が空を飛ぶこともないし、人間そっくりのロボットが現れることもない。この作品の世界では、コンピュータ・ネットワークは「インターネット」ではなく「ワイヤード」と呼ばれ、ネットワーク端末は「パソコン」でも「ケータイ」でもなく「 NAVI 」(ナビ)と呼ばれている。

主人公は岩倉玲音(いわくら れいん)という名の私立中学2年生の少女。年齢に反して子供っぽく、内気な性格をしている。人間関係が乏しく、ほとんど友人がいない。そんな彼女と同じ学年で顔見知りの少女、千砂(ちさ)が飛び降り自殺を遂げるところから物語は始まる。死んだはずの千砂から学校の生徒に電子メールが届き始め、ついに玲音の下にも届く。そのメールの内容は、「自分は肉体を捨てただけで生きている。ここには神様がいる」というものだった。関心を抱いた玲音は、父親に新しい NAVI をせがむ。時を同じくして、玲音は日常生活の中で幻聴や幻覚を体験し始める。

玲音の友人たちは、遊びに出かけた渋谷のクラブ「サイベリア」で、玲音に似ているが性格がまるで違う人物を目撃したと玲音に語る。友人たちにサイベリアに呼び出された玲音は、ドラッグを摂取した少年による銃撃事件に遭遇する。少年は玲音の姿を見て怯え出し、「何故自分にこんなことをさせるのか。ワイヤードはリアル・ワールドに干渉してはならない」と玲音に向かって叫ぶ。玲音は突然人格が豹変し、「どこにいたって、人は繋がっているのよ」と言い放つ。その直後、少年は銃で自殺を遂げる。

警察に保護される玲音だったが、家族の反応は奇妙なものであった。父親に与えられた最新型の NAVI を使い、玲音はワイヤードへのアクセスを深めていく。何者かから NAVI の性能を飛躍的に向上させる部品を与えられ、NAVI を改造してワイヤードを縦横無尽に巡る。ワイヤード内での玲音は、内気な少女ではなくサイベリアの玲音のように攻撃的な性格をしている。

一方、世間ではネットワークゲームのプレイ経験がある少年が少女に追われて自殺したり、追いかけてきた少女を殺害したりする事件が起こっていた。玲音の姉、美香(みか)は自動車が往来する渋谷の路上に立ち尽くす玲音の姿や、街頭の TV 画面に玲音の顔が現れるのを目撃する。玲音は雲間から現れた玲音の幻影を崇める子供たちの姿を目撃する。岩倉家の前には謎の黒服の男たちが現れ、玲音の監視を始めている。美香の前に「預言を実行せよ」というメッセージが現れ、時制の異なる二人の美香が邂逅し、美香は自我を失う。数々の事件には、謎のハッカー集団「ナイツ」の関与がほのめかされる。部屋いっぱいに改造と拡張を重ねた NAVI で玲音はワイヤードにアクセスし、事件の真相を追う。

物語の時制は曖昧になり、一人の人間としての玲音の同一性も曖昧になっていく。画面に現れる映像は現実なのか、玲音の精神世界なのか、ワイヤード内の仮想現実なのか。新たに人格の異なる玲音が現れ、友人たちや学校の生徒たちが抱える秘密をワイヤードに暴露したことで玲音は孤立する。玲音の家族はその虚構性を露わにして崩壊する。玲音の前にワイヤードの「神」を名乗る男、英利(えいり)の幻影が現れ、事件の真相や玲音の正体について語るが、その内容が事実かどうかすら定かではない。

ワイヤードと現実世界と玲音の意識が混濁するうち、玲音は現実世界を自分の都合のいいように改変することを決意する。物語の始めから玲音を気遣い続けてきた友人、ありすに対して、「人格の異なる自分が行った罪をなかったことにする」と玲音は伝えた。そして世界は改変される。ありすだけが元の世界の記憶を保っていた。ありすは岩倉家にいる玲音を訪ねるが、玲音と英利の問答に巻き込まれ、放心してしまう。掛け替えのない友人の心を狂わせてしまったことを悔やんだ玲音は、ある決断を実行する。「記憶なんてただの記録。記録なんて書き換えてしまえばいい」と。

この物語では、『トロン』『ニューロマンサー』『マトリックス』といった SF 作品とは違い、「コンピュータ・ネットワークが現実世界を模倣している」のではなく、「現実世界こそがコンピュータ・ネットワークの模倣である」という可能性が示唆される。コンピュータ・ネットワークの情報が現実世界を侵食し、人々の認識と意識がコンピュータ・ネットワークのように結合される。「人間の記憶は記録に過ぎない」というドグマのもと、コンピュータに保存されたデータを書き換えるように、人々の記憶や歴史が書き換えられる。

演出面においても、作品と視聴者の分断を破り、視聴者を作品世界に接続しようという意図が端々に見られる。客観的な正しさが保証されない作品世界を前にして、視聴者は混乱を来たし、真相を求めて作品に接近せざるを得ない。視聴者が虚実の入り混じった作品世界に接することで、視聴者の玲音に対する認識は頻繁に書き換えられ、視聴者それぞれの「玲音」像が生まれる。あたかも作中内で表明される「玲音は遍在する」というドグマのように。最終話において、玲音は画面上にぼんやりと現れ、視聴者に語りかけるかのように、画面の外側へ自分の居場所と正体を問いかけてくる。その姿を見て、視聴者は玲音と自らが接続されていることを否応無く意識させられる。

本作の奇跡として、玲音を演じた清水香里のことも触れておきたい。清水香里は当時子役あがりの中学生で、玲音の存在感にひどく生々しさを感じさせる。その演技は初め棒読みスレスレに思えるが、実際には彼女は玲音の持つ多面性を演じ分けることに成功している。次回予告では物語の内容の説明はされず、清水香里のフェティッシュな実写映像が流され、本編での無機質な世界観と対比を成している。

1998年は TV アニメの製作現場にコンピュータが導入された端緒期にあたり、コンピュータ・ネットワークの世界という本作の題材もあいまって、CG やデジタル処理された映像が随所に用いられている。制作スタッフにコンピュータ・マニアが多くいたことから、コンピュータ・マニアな視聴者を惹きつける、先進的かつ混沌とした独特な感覚の映像表現が多用されている。

本作は第二回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門優秀賞を受賞しているが、星雲賞は受賞していない。知名度の低さが災いしたのだろうか。

廉価版 DVD-BOX が現在でも販売されており、入手は容易。海外での人気も根強いようで、YouTube のような動画投稿サイトに本編が丸ごとアップロードされているのを見かける。ただし廉価版 DVD-BOX には次回予告や、「ウェザーブレイク」という画像(本放送時、次の番組が天気予報だったので橋渡し的な意味で放送された)が収録されていない。

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「突撃!ヒューマン!!」の主題歌(1972年)。
「突撃!ヒューマン!!」とは舞台芝居(遊園地のヒーローショーみたいなもの)の公開録画という珍奇なヒーロー番組で、『仮面ライダー』の裏番組として放送されていたため人気で勝てず、わずか1クールで終了した。

この曲、結構お気に入りなんだけど、「ひゅーひゅーひゅー」のあたりやバックのリズムの取り方がモロに「そよ風にのって」のパクリだと教わった。


「そよ風にのって」 マージョリー・ノエル

1965年のアイドルソング。
原題は「 Dans le même wagon 」(同じ車両の中で)。
爽やかで鉄道をイメージした軽快なリズム、そしてコーラスとマッチしたメロディー。
しかし歌詞はといえば、男性と乗り合わせた列車の中で自分と彼の恋を勝手に妄想する危ない女の子の歌。
初心者でも判る簡単なフランス語だから、教育利用にいいかも。
http://jp.youtube.com/watch?v=7MPl1FqKFqo&fmt=18 でステレオに。

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『 Memories Off #5 とぎれたフィルム 』の web での評価を探ってみると、評価が低くて意外だった。もちろん個々人の嗜好が作用して評価にバラつきが出るのはもっともなのだが、それにしても評価が低すぎないかと思う。

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SuperLite2000恋愛アドベンチャー Memories Off #5 とぎれたフィルム メモリーズオフ#5 とぎれたフィルム [恋愛ゲームセレクション]

過去に交際していた女性や現在交際している女性への未練が原因で、主人公がウジウジと悩むストーリーが特徴的なノベル型アドベンチャーゲーム「 Memories Off 」シリーズ。
その5作目が『 Memories Off #5 とぎれたフィルム 』。
2005年の作品である。
主人公の初期状態が、「彼女と死別」→「彼女はいるが関係が冷え気味」→「過去に理由も判らず彼女と別れた」→「突然彼女から別れを告げられる」という順番で進んできたこのシリーズ。
今度は「主人公が交際中の女性に別れを切り出す」パターンかと思いきや、違った。
なんと今作の主人公は、過去でも現在でも女性と交際しておらず、女性への未練で悩まない!
このシリーズでは画期的なパターンだ。
でも、やはり「 Memories Off 」の冠を頂いた作品だけあって、主人公はウジウジと悩む。
では何が原因で悩むのかというと、「過去の男」なのである。
もちろん、主人公が同性愛者だという意味ではない。

今作の主人公は大学生の青年、春人。
大学に入学した彼は、高校時代に映画制作を行っていた仲間たち3人とともに映画制作サークルを作る。
しかしその直後、彼の親友でありライバルであり、仲間たちのリーダーだった男、雄介が不審死を遂げてしまう。
死の直前、雄介は執筆中の脚本の主演女優にうってつけの人物が映っているとして、春人に「ファム・ファタル」と題されたビデオテープを渡していた。
そのテープには、雄介に対して殺人予告をする少女の姿が映っていた。
雄介の死後、ショックを受けたサークルのメンバーたちは映画制作をやめ、サークル部屋で馴れ合う日々を送っていた。
しかし春人が2回生を迎え一人暮らしを始めた春、サークルのメンバーたちの前に一人の女が現れる。
「ファム・ファタル」の少女、麻尋だった。
彼女はメンバーに対し、雄介の遺した脚本で映画を作ろうと持ちかける。
しかし彼女は雄介の死に関わっているため、メンバーは映画制作を拒否する。
この出来事をきっかけとして、春人の運命は大きく動き出すことになる。

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恋愛アドベンチャーゲームの『 Memories Off 』シリーズの物語は単純なボーイ・ミーツ・ガールではなく、大抵は心に傷のあるヒロインを主人公が救済することで主人公とヒロインが恋人同士になります。厄介なことに主人公は元彼女や交際中の彼女に未練があるものだから、恋人関係の成立までには話がどんどんこじれます。

話を盛り上げるための設定とはいえ、そのヒロインたちに課せられた不幸な身の上とは?
下記をご覧ください(順不同ネタバレ)。関係者が死にすぎですね。
そもそもダメ男に恋をしてしまうこと自体も不幸ではあります。主人公さえまともなら、修羅場で傷の上塗りをせずに済むのに。

主人公が救わなかった場合、ヒロインたちの未来は暗いです。主人公が救うと言っても、主人公の判断がまずく結果オーライなことも多々あります。主人公のハッピー・エンドが、他のヒロインの心を傷つけていることも多々あります。ダメな主人公より脇役の男たちの方が遥かに性格的に男前なので、それがプレイヤーにとっての救いです。

時に腹黒いヒロインと、優柔不断で悩み続けるために事態を悪化させるダメ主人公が織り成す泥沼ワールドに興味のある方は『 Memories Off 』シリーズをどうぞ。
主人公のダメっぷりにストレスが溜まるので、甘いラブストーリーや主人公の成長物語でストレスを解消したい方には不向きです。

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「日曜洋画劇場」の淀川長治のパロディ作品。
関西訛りが出ていないのが惜しい。

確かに彼の言ってることに間違いはないけど、『家族計画』の本筋は人間の陰陽が炙り出されるヒューマン・ドラマですから誤解なきよう。
ロリコンは病気です!

ニコニコ動画には『 CROSS†CHANNEL』版や『 ToHeart2 Xrated 』版も公開されています。


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単純に私が世間知らずなだけなんでしょうが。
ふと調べてみると、意外にも日本のノベル型ゲームは英訳されていることが判った。

例えば、『加奈 ~いもうと~』。
英語版の題名は『 Kana: Little Sister 』。
原作が発売されてから3年後の2002年の発売ということなので、。
ゲームサイト「 Moby Games 」のユーザーレビューには、賛辞が連ねられている。
英語圏の人々にも感動が伝わってるのが微笑ましい。

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『果てしなく青い、この空の下で…。』は2000年に発売された成人向けノベル型アドベンチャーゲーム。
メーカーの Web サイトで見たとき、タイトルといいキャラクターデザインといい、雰囲気のよさそうな作品だな、消えていく田舎を舞台にした叙情的恋愛ものかな、と思っていたのだが、実際は違うのだという。
なるほど、プレイしてみたらいい意味で裏切られる隠れた良作だった。


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衝動的に『 Remember11 -the age of infinity- 』の時系列一覧表を作成してみました。
考察の参考になるかもしれません。
記述はグッドエンド編を基にしています。
展開されるデータは MS-Excel 形式です。
一瞬でも見ると重大なネタバレになるので、プレイしていない人は見ない方がいいです。

http://meta-metaphysica.net/etc/remember11.lzh

作っている途中で頭が混乱したので、間違いがあるかもしれません。

再プレイして思ったのですが、実に緻密に作られたシナリオですね。
残された謎を全て説明してくれるエピソードが存在しないのが悔やまれます。

アイツとは何か、セルフとは何か。
計画の目的は何か。
ゆにが錯乱するのは何故か。
悟はオーストラリアに行って何をしようとしていたのか。
沙也香が動機にどう絡んでいるのか。
「私は、確かに『籠女』だったのだ」という独白の意味は何か。
探偵小説で、犯人も犯行手段も明かされたのに犯人の動機と目的が伏されて終わるようなもどかしさ。
結末からどんでん返しを作るとしたら、「沙也香=こころ」だとか「こころが双子を妊娠した」だとかが面白いと思うんですが、どうでしょうか。

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文学部出身ですが文学は苦手です。

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