そもそもこの旅行の直前には日本列島を台風が襲った。
飛行機が欠航になると宿や交通の予約が全てパァになってしまうので、その動向を戦々恐々と注視したものであった。
日本海を走り北海道を横断した台風は、旅行出発日である9月20日の午前中にオホーツク海へと抜け、ギリギリ事なきを得たのである。
台風一過ということもあって、9月21日の道東は素晴らしい晴れの天気に恵まれた。

朝、釧路駅前。
教会の後ろにあるのが前夜宿泊した釧路ロイヤルイン。
写真の背後に当地で路線バス事業を営む阿寒バスのターミナルと営業所がある。
この日は阿寒バスが運行している定期観光バス「ニューピリカ号」に乗り、道東の名所を巡るという趣向。
レンタカーを借りるという手もあったが、さすがに自動車を8年近くも運転していないので危険だし、知らない道を通って効率よく巡れるかというと疑問だ。
バスなら座ってるだけで広大な道東を予定時間通りに巡ることができる。
「ニューピリカ号」にはバスガイドが添乗し、ひたすら観光案内を話してくれる。
出だしから早速釧路の町について解説があった。
釧路川流域にはダムがない、右手に見える釧路川は治水のため分水路として開削したもの、釧路川の豊富な水量のおかげで日本製紙と王子製紙の二つの大製紙会社の工場がある、など。
車窓から住宅に目を向けると、暖房装置と煙突が住宅の壁から生えていて、さすが冷涼な地であると思わせる。
市街地を抜けると、すぐに車窓の風景は草の生えただだっ広い野原となる。
勾配をぐんぐん上りたどり着いたのは、釧路湿原の展望台。

おお、これがかの有名な釧路湿原。
広いなあ。
人工物が全く見えないぜ。
で、湿原はどこですか?
ここは釧路湿原の東の端。
湿原は林の向こうに小さく見えるだけだった。
観光写真で見るような湿原は、湿原の西の端、つまり鉄道の通る方から観るか釧路川をカヌーで下るかしないと堪能できないのである。
釧路湿原から上れる細岡展望台がオススメである、と『北へ。~ Diamond Dust ~』でも紹介されていた。
お次は摩周湖へと移動。
途中、鶴の飛来地という地域で畑の奥に野生の鶴のつがいを目撃。
さらに、大きな翼を大きく広げて飛び立つ鶴も。
サービスというものをよく判っている。
そうこうしているうちにいつの間にか眠り込んでしまい、目が覚めると到着の直前だった。
周りは牧場のような風景が広がるばかり。
バスは坂道を登り、展望台前の駐車場に止まる。

展望台に上ると目前に広がるのは観光写真のような素晴らしい眺め。
摩周湖の水面に雲ひとつない空の青とカムイヌプリが映える……って雲はあるな。
空気も爽やかでうまい。

振り返るとこれまた道東の丘陵が広がり、本州ではあり得ない緑豊かな景観だ。
写真には収まっていないが、右手には雌阿寒岳・雄阿寒岳もくっきりと見える。
わざわざ来た甲斐があったと素直に思う。

展望台に併設された土産物店にトイレがてら下り立ち、再び摩周湖を眺める。
ちなみに道がないので岸辺まで降りることはできない。
摩周湖の次は屈斜路湖方面へ移動。
「クッシー街道」などと脱力する名のつけられた屈斜路湖畔の道路を走り、さらにクネクネと勾配を上って美幌峠に到着。


美幌峠を題材にした美空ひばりの歌がエンドレスで再生されているモニュメントを背後にしつつ、屈斜路湖を一望する。

空は広々、風は爽やか。
素晴らしい。

北海道で峠と言えば、「峠のあげいも」が名物だ。
昼飯時が近いが、つい1本買い求めてしまった。
コロッケよりもややあっさりした味でホクホク感がありうまい。
私は食べなかったが、半球に切ったメロンにアイスクリームを載せた豪快なデザートも売られていた。
峠を降りて再びクッシー街道へ戻る。
途中で道を曲がり、オープンカーで走ると気持ちのよさそうな湖畔の道路を走っていく。
古くからアイヌが住み着き、小汚い住宅や博物館のあるコタンを通りすぎて砂湯に到着。

ここは砂浜を掘ると温泉が染み出してくるというところ。
家族連れが砂堀りに興じていた。

ここは貸しボート屋もある。

土産物屋とレストランが併設された小奇麗な建物があり、折角なのでそこで提供されている「クッシーラーメン」を食してみた。
クッシーの形に抜かれた緑色の物体がラーメンの上に載っている。
屈斜路湖に住む謎の生物クッシー。
古来アイヌが密かに食してきたその肉を蒲鉾として加工したものであると思われる。
謎の生物なので天然記念物にも指定されていないから捕まえても食べても法には触れない。
ラーメンとしての味は観光地の割りに、普通のラーメン屋クラスの味がある。
ラーメンにしては注文してから出来るまで時間がかかるが、クッシーの肉を使っているがゆえのことであろう。
なお、真偽を店員に問いただすことはできない。
そんなことをするとクッシーの餌にされてしまうからである。
屈斜路湖の次はそばにそびえる硫黄山である。
摩周湖も屈斜路湖もカルデラ湖。
屈斜路湖畔には温泉が出る。
要するにこの辺は火山地帯というわけだ。
活動している火山があれば硫黄も出る。

風向きが逆だったので硫黄の匂いこそしないが、地面から煙が出ているのが見える。
さらにこんなところでも、1個食べれば寿命が10年延びるという「黒卵」が売られている。
硫黄の成分が含まれた温泉で卵を茹でると、殻が黒く変色するというアレだ。
箱根だけの専売特許ではないのであった。
バスは川湯温泉を抜け、山を越えていく。
昼食後の眠い時間帯だ。
バスガイドも乗客を休ませるために沈黙となる。
山道を揺られ揺られて阿寒湖に着く。

飛行機から観た阿寒湖、そして雌阿寒岳を地上から観る。
阿寒湖といえば阿寒湖まりも、もとい毬藻であるが、岸からは見えない。
観光船に乗り、湖に浮かぶ島に建てられた展示施設に行くことで見ることができる。
ここで土産物を調達したかったので、残念ながら観光船に乗るのは諦めた。
温泉街としても開けているだけあって、湖畔には土産物屋が非常に多い。
アイヌ舞踊を上演する施設を中心にアイヌ民芸品店が集積した区域もある。
観光に身を売り変質しながらも生きることを選択したアイヌの成れの果て、と言えようか。
以前から欲しかったムックリを2種類、ここで購入した。
店のおっちゃんが売り込みのために実演してくれたが、さすがに上手。
ここがバスツアー最後の観光地となり、釧路に戻る。
結局300kmほどの道のりだったらしいが、思い返してみると信号で止まったのが両手で数えられるくらい。
釧路の市街地を除くと信号自体が珍しい存在である。
積雪時に道路から脱輪しないよう、道路の幅を示すためのポールが延々と道路の端に建てられていて、さぞ費用がかかっていることだろうと思われ、異世界を感じさせる土地だった。
さて、釧路へ戻ったはいいが、今夜はホテルに宿泊ではなく、札幌へ向かう夜行列車での宿泊だ。
出発は23時。
およそ6時間ある。
夕日は既に沈んで見えないが、空は茜色。
夕日の綺麗なスポットとして名高い幣舞橋を目指し、駅から大通りを歩く。
交通量が少ないのに、車線数が不釣合いに多い。
歩道の幅もやけに広い。
電線が地中化されているので、何となくアメリカの都市のような印象もある。
街灯は観光を意識してか、昼光色と電球色を織り交ぜて配置されており、情感を与えてくれる。
しかし開いている店舗が少ない。
早くもゴーストタウン化しているような雰囲気がある。
通勤帰り風の人ともすれ違うが、絶対数が少ない。
その寂しさを隠すためか、街頭に音楽やらCMやらが流されている。
耳だけは商店街のアーケードの中を歩いているような気にさせられる。

幣舞橋周辺は護岸が遊歩道として整備されている。
柵もない。
気を抜けば川に転落しかねない。
それだけに夜霧よ今夜も有難う、という感じでムーディーではある。
しかし本当に人が通らない。
アベックで歩くとそれはそれはよろしかろうと思うんだけども、当のアベックは1組しか見出すことができなかった。
ところで、釧路のレストランではスパゲティが鉄板に乗って出てくるのだという。
そこで『北へ。~ Diamond Dust ~』でメガネっ子と訪れたレストランを実際に訪ねてみた。
幣舞橋の近くにある「レストラン泉屋」本店だ。

「レストラン泉屋」は洋食屋とファミリーレストランの中間あたりを思わせる店だった。
雑居ビル風の建物の1階と2階それぞれワンフロア全部がレストランである。
1階の入口にショーケースがあり、ずらりと料理サンプルが並べられている。
確かに、鉄板の上にスパゲティが……。

この店のスパゲティでも名物という一品を食す。
一見普通のナポリタンだが、実際はでかいトンカツの上にミートソースがかかっているのである。
結構なボリュームでおなかいっぱいだ。
時間を潰すためビール1杯で2時間ほど本を読んで粘ったが、前後のテーブルに座った客はやはり同じミートカツのスパゲティを注文していた。
店を出て辺りをブラブラしてみる。
駅から少々離れているが、ここが釧路の繁華街。
飲み屋が集結している。
縦方向にも横方向にも大阪のアメリカ村の真ん中程度の歩道と車道があるが、いかんせん歩いている人間がほとんどいないので、シャッター街というわけでもないのに寂れた空気が漂っている。
木曜日の晩とはいえ、都市としての空洞化が激しいように見受けられた。
大通りから入り込んだところにケンタッキーフライドチキンや笑笑があるところからしても、ここが繁華街であることは間違いないのだが、漂う空気は21時を過ぎたベッドタウンの駅前、である。
折角釧路に来たのだから海産物を肴に一杯、といきたいところなのだが、先程食べたトンカツのボリュームがずっしりと響き、どうも暖簾をくぐる気分になれなかった。
勿体無いことをしたかなあ。
ともあれ、ひとまず駅に戻ってみた。
駅ビルのミスタードーナツで茶でも飲みながら本を読もうかと思ったが、禁煙だった。
やれやれ。
暇つぶしに、阿寒湖で買ったムックリの練習をする。
ひたすら2時間ばかり、ビヨーンビヨーン。
道行く女子高生に遠くから「ムックリだー」などと噂されるが、聞こえない振りをしてビヨーンビヨーン。
紐が指にこすれ、練習のし過ぎで痛くなった。
22時30分、釧路発札幌行の特急「まりも」が入線。


「まりも」は気動車の間に2両の寝台客車を挟みこむという特異な編成だ。
実は寝台車に乗るのは初めてである。
今時寝台車に乗ると特急料金に加えてビジネスホテルより高い寝台料金を取られるわけで、貧乏学生には辛かったのだ。
月給取りになって小金を持つようになってこそ出来る贅沢なのである。
ブルートレインに憧れた少年時代からの夢がついに叶う。
ありがたやありがたや。

14系客車の2段式B寝台。
体の長い私でも十分な大きさではあるが、私の割り当てである下段ベッドには荷物置き場がない。
スーツケースを通路に置くと他の客に迷惑であると同時に盗難の危険がある。
やむなくベッドの隅に置かざるを得ず、少々窮屈になってしまった。
サービスの浴衣も、万一脱線事故なんかが起きたとき浴衣姿で車外に出るのが嫌なので着用しなかった。
払った金の割には少々勿体無い気分だ。
シーツを敷き、布団をかぶって横になる。
真下からレールの振動を直に受けるかのように垂直の突き上げがやってくる。
やはり上段ベッドを選ぶべきであったか。
こんな状態で眠れるのか。
しかし旅で疲れているのか、いつの間にか意識は闇の中に落ち込んでいった。
コメントする