2002年から製作・公開されてきた物語『ひぐらしのなく頃に』。
今夏公開された第8作目「祭囃し編」にてついに完結だ。
第7作目の「皆殺し編」では事件の真相と黒幕がほとんど明かされた。
この第8作目においては、黒幕が犯行に至るまでの経緯が語られるとともに、残されていた謎の解答が提示される。
そして作中の人物たちが黒幕を打倒してハッピーエンドを獲得する模様が描かれる。
物語はまず黒幕の一人称視点から始まる。
妥当な展開である。
特筆すべきは、ここに至って初めて本作に「ゲーム」と呼ぶにふさわしい仕掛けが導入されることだ。
第7作目まで、読者は画面に表示される文章を読むだけだった。
文章を読むためにマウスのボタンやキーボードのキーを押すだけだった。
「祭囃し編」も途中までは同じ。
だがある地点で物語は断片化され、画面上にシーンがボタンの形で並べられる。
正しいボタンを選択すると、物語のシーンが叙述されていく。
そしてまたボタンの選択画面へ戻る。
誤ったボタンを押しても物語の文章は叙述されない。
特定のボタンを押して文章を読むことに成功すると、次のどれか特定のボタンに対応した文章を読むことができるようになる。
Playstation 用ゲーム『 serial experiments lain 』を彷彿とさせるシステムだ。
これは作中のある登場人物の行動を追体験するもの、と作中で位置づけられているとはいえ、「 TIPS 」システムを除いてコンピュータ・ゲームらしさがなかった『ひぐらしのなく頃に』という作品に親しんできた読者にとっては唐突だ。
だが、『祭囃し編』には「 TIPS 」が存在しないことを考えると、これは「 TIPS 」の変形である、と解するのが妥当だろう。
全てのボタンに対応したシーンを読み終わると、物語は再びいつも通りの一本道の小説へと戻る。
あらゆる困難を乗り越えて登場人物たちは団結して黒幕と戦う。
その戦いはうまく行きすぎとも、ご都合主義ともいえる。
作中に「奇跡」の二文字が何回現れるのかカウントしてみたくなるほど、頻繁に現れる「奇跡」という単語がくどい。
ベースが強固にハッピーエンドを拒む物語であるであるがゆえに、仕方のないところだろう。
作者が描きたいのは、黒幕以外の主だった作中の人物全員が黒幕を倒すために団結する必要があり、一人でも欠ければ黒幕を倒せない、という構図である。
誰かが死ねばアウト。
誰かが協力しなければアウト、という世界が本作の世界なのだ。
黒幕との戦いは荒唐無稽な展開を辿っていく。
「努力・友情・勝利」という陳腐ですらある週刊少年ジャンプ的テーマを、週刊少年ジャンプ的な盛り上がりを得るべく描くためにそうなった、と解釈するべきか。
もはや出題編の緊迫感はなく、アクション映画におけるボス戦のようなケレン味に満ち満ちている。
まさに「惨劇なんてなかった。あったのは喜劇」。
そして黒幕が打倒されることによって、本作の真のテーマが明らかになる。
『ひぐらしのなく頃に』の第一作、「鬼隠し編」の冒頭に掲げられた詩篇を思い返そう。
「どうか嘆かないで。
世界があなたを許さなくても、私はあなたを許します。
どうか嘆かないで。
あなたが世界を許さなくても、私はあなたを許します。
だから教えてください。
あなたはどうしたら、私を許してくれますか?」
「罪を赦し合う」。
これが『ひぐらしのなく頃に』のテーマだったのだ。
こうして円環的に伏線が回収され、長い長い物語は閉じられるのである。
綺麗な締めくくりに拍手を送りたい。
ところで、ここに来て『ひぐらしのなく頃に』はプロレスのようなもの、という気がしてきた。
プロレスは真剣勝負を装ってはいるが、筋書きのある見世物だ。
観るものはそれを理解した上で楽しむ。
装いを信じ込んだ人は、筋書きの存在を知って「八百長だ!」と憤るかもしれない。
あるいは観ることを放棄するかもしれない。
しかし、楽しむ人は自ら率先して楽しみを見出そうとする。
『ひぐらしのなく頃に』もミステリーを装ってプロモーションされたが、ミステリーではなかった。
その点を非難する向きは納得できる。
だが、本作に接して得られる娯楽的経験は偽りではない。
娯楽作品として向き合ったとき、本作はなかなかに優れた娯楽を提供してくれる。
邪道とも言える一方で、娯楽として楽しんだもの勝ちでもある。
『ひぐらしのなく頃に』という作品はそういうものだと思う。
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