ネット上での『劇場版 AIR 』の評判を観ると、賛否両論、というよりは「そこそこ」派と「駄作」派に分かれているように思う。
どちらの意見にせよ、論点は脚本と演出についてである。
(ネタバレを含むのでご注意)
脚本
原作ゲームの物語は長い。
これをどう映画脚本としてまとめるかが問題となる。
パンフレットに監督インタビューと脚本第三稿の抜粋が掲載されているのだが、それによると監督は最初原作にほぼ近いその脚本を読んであまり理解できなかったようだ。
また、(原作に近いだけに)劇場映画として制作・上映が不可能なほどその脚本は長すぎると考えられた。
しかし監督はその物語がもつ独特の感性は感じとっていて、面白いと思ったらしい。
監督はシナリオの改稿を脚本家に命じ続けて一旦は脚本がグチャグチャになってしまったのだが、最初に読んだ脚本が持つ独特の感性を復活させようと、改稿過程の脚本を集めて組み立てなおしたという。
そういう経緯で出来上がった劇場版の脚本は、細部の改変はさておいても、作品のテーマが原作ゲームとは大分変わってしまった。
原作ゲームは、「1000年前に呪いを受けた翼人の記憶を受け継いだ少女」神尾観鈴と、「翼人の呪いを解く意思を受け継いだ青年」国崎往人が出会い、「翼人の記憶」と呪いを終わらせる物語である。
彼ら個人は、受け継いだもののせいで恋愛を育む未来を持ち得なかった。
翼人は地上を見守りその記憶を子に伝えるという性質を持っていたが、人間に迫害されてその数を減らしてゆき、1000年前、ついに翼人が人間と関わることのないよう最後の翼人の少女に呪いがかけられ翼人は地上から姿を消す。
翼人の少女の肉体は空の上に漂い続け、彼女の記憶だけは地上の人間に宿って輪廻を繰り返すこととなったが、「翼人の記憶」を受け継いだ人間は「翼人の記憶」の大きさに肉体が耐えられないため、大人になる前に死んでしまう。
翼人の少女にかけられた呪いは愛した相手を殺してしまうというものだったので、他者と絆を結ぶこともできない。
観鈴もまた「翼人の記憶」と呪いのために衰弱していき、往人もそれを止めることができず果てる。
だが鳥に身を変えた往人の意思の力により「翼人の記憶」の全てを引き受けた観鈴は、家族愛に溢れる生活を過ごしたという幸せな記憶を抱いて「翼人の記憶」の最後を全うする(=「ゴールする」)。
鳥がその記憶を天に運ぶことで、翼人の少女の呪いが解かれるのだった。
『劇場版 AIR 』は原作の翼人伝説を参照しつつもファンタジー色が大幅に削られ、より現実的な青春物語としてまとめられている。
「病気のために友達が一人もいないまま過ごしてきた少女」観鈴がその人生最後の夏、自分に残された命の短さを自覚し、一生懸命恋をしつつも家族の絆もまた強く結ぼうと奮闘する物語となった。
そして「傷つくのを恐れて人と深く関わることを避けてきた若者」往人が、人と交わることの辛さから逃げずに向き合おうとする物語でもある。
原作に沿った展開を期待していると、大きく裏切られる脚本といえる。
物語の改変にともなって、キャラクターたちの性格造形も変わることとなった。
原作ゲームのファンの間では、原作の物語の軸となる「翼人の記憶の輪廻」が脚本から省かれて重々しい悲劇性が消えたことに強い反発が巻き起こっている。
一方で、90分という劇場映画の限られた尺に物語をまとめるには仕方の無い改変だと割り切った評価する向きもある状況である。
演出
作品にそぐわない「出崎調」演出に強い拒否反応を覚えるか、監督に出崎統を据えた時点で「出崎調」演出はやむをえないものと予め受け入れているかに二分される。
ただし「出崎調」演出を甘受するにしても、その演出技法が多用されるために生じているくどさは否めず、演出の必然性が感じられないことに不満の声が多い。
また、海岸で太鼓を叩く一団のシーンが何度も挿入されることや、『あしたのジョー』に出てくるボクサーのようにヒロインが光る吐瀉物を流すシーンが存在することについて、必要性が疑問視されている。
クライマックスのシーンで、挿入歌「青空」が流れ出すタイミングが悪く名場面がギクシャクしているとの評価もあった。
その他
『 AIR 』は平行して TV アニメーション版が放送されている。
その TV アニメーション版は脚本が原作に沿ったもので、作画レベルも高いそうだ。
その比較から脚本の改変や作画レベルの低さを非難する意見が目立っている。
作画の問題点としては、絵の枚数が少ない点、ロングショットの際に作画が崩れている点が挙げられる。
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