6 février 2005

『劇場版 AIR 』を観た

上映前

『劇場版 AIR 』公開初日に映画館へ行ったはいいが、チケット完売という壁に阻まれてしまった昨日。
今日は初回上映に合わせて出かける。

9時上映開始の15分前、8時45分に心斎橋のパラダイススクエア前に着いたが、そこには行列が出来ていた。
アメリカ村には不釣合いなオタクなお兄ちゃんたちの行列である。
今テレビで新番組『ふたりはプリキュア マックスハート』第一回の放送中だぞ、こんなところに居ないで家で観ろよと思ったが、当然彼らは録画していて帰宅後観るのであろう。
ああそうさ、私も帰ってから録画したのを観るさ。

10分ほど行列に並んで待つとカウンターにたどり着いたが、手に入った整理券は11時上映開始の回、97番であった。
劇場の定員が100人ちょっとだから、初回上映の観客を勘定に入れると私の前に200人もいたわけである。
朝も早くからご苦労様。
で、カウンターに着いて気が付いたのだが、上映スケジュールの表の下に張り紙がしてあった。
こんな内容。

「初日は尋常でない混雑のため大変ご迷惑をおかけしました。土日祝の上映に限り若干の立ち見をご用意いたします」

正確な文は覚えていないが、「尋常でない」という表現が強く記憶に残っている。
普通告知文では使わない、それこそ尋常でない表現だ。

11時上映開始の回に入場するための集合時間は10時40分。
それまで、腹ごしらえをしたり用意していた本を読んだりして時間を潰す。
心斎橋界隈でこの時間に開いている店は極端に少ないので、ウインドウショッピングで時間を潰すこともできない。
ロビーに男ばかり、しかもオタクなお兄ちゃんたちという極端にむさくるしい状況の中、同じ映画館で上映中の『テニスの王子様』を観に来たティーンエイジャーの少女たちの姿が救いであった。

そんな感じで上映を迎える。

本編

やはり出崎統の映画であった。
『あしたのジョー2』やビデオ版・映画版『ブラック・ジャック』をご覧になった方ならご存知の「出崎調」演出が繰り出される。
その度に「出崎キター!」と内心、笑ってしまう。
出崎統に特有の演出技法というのは、

・空から光線が降り注ぐ(理科で習ったチンダル現象の表現)

・セル画から一枚の止め絵に入るカットの多用

・フラッシュバック(同じカットを3回繰り返す)

といったものである。
あと、ロボットアニメでロボット操縦中のキャラクターが会話するシーンに似ているが、画面を左右に2分割して違うカメラの絵を一つの画面に納める技法が使われていた。
シーンの転換に真暗闇の間を置く演出も目立つ。

出崎統アニメというと劇画調のイメージがあって、上記の技法がハードボイルドあるいはシリアスな雰囲気を高めていたのだが、美少女アニメの絵でそれをやっているのでパロディを見せられているような違和感を覚えてしまい笑ってしまったのである。

物語の展開や舞台設定は原作ゲームとは異なる。
ヒロイン神尾観鈴の住む土地に伝わる翼人伝説を参照しつつ物語が進むが、その翼人伝説の結末が原作とは違う。
観鈴の運命は同じだが、主人公の国崎往人は観鈴と結末を同じくしない。
観鈴と過ごした日々を通じて成長したと感じさせる往人の、哀愁を帯びた追憶の独白で物語は終わる。

海辺の街の夏を舞台にしている点は同じだが、ずっと都会的であるし、電車が走っている。
原作ゲームでは夏の気だるさが強調されていたが、劇場版ではあっさりしている。
鉄道が廃線になるくらい寂れた田舎町の夏、その昼の倦怠感、夜のやさしさといったノスタルジーを感じさせる雰囲気が原作ゲームの持ち味だったと思うので、この辺はちょっと残念である。

では原作ゲームのことは忘れて考えるとどうだろう。
原作ゲームをプレイしたこともなければキャラクターも知らない人がこの映画を見たらどう思うだろうか。

「なぜ往人は人形を操ることができるのか?」
「なぜ往人の母は往人に『空の少女を救って』と言ったのか?(普通の母親はそんな突拍子もないことを脈絡もなく子供に言わない)」
「観鈴は何で病気にかかっているのか?」
「翼人伝説と観鈴の間にどういう関係があるのか?」

多分、そんな疑問が湧いて出てくる。
これらの点については原作ゲームでは明らかにされているが、映画では説明が一切ない。
往人はそれなりの芸を身につけた人間で、母親は精神に異常を来たした人間であり、観鈴はもともと病弱な少女であったのだが翼人伝説を自分になぞらえて恋を果たしたのだ――と割り切って考えるしか物語を消化できない。
あるいは観鈴と往人は翼人伝説の二人の直接の生まれ変わりである、と解釈するしかない。

かといって、批判ばかり言いたいわけじゃない。
いいと思ったところはある。

何といっても、観鈴が可愛い。
笑顔や明るさが魅力的に描かれている。
加えて原作ゲームでは頭が足りず奇行が目立つという印象の少女だったのが、主体性や意思を感じさせる描き方となっていた。
まあ、ヒロインが不細工だと悲劇的な運命も「あらあら気の毒なことで」と済んでしまって涙もクソもないのだから当然のような気がするけど、大事なところである。

そして観鈴の母、晴子の表情がいい。
観鈴に対して深い愛情を抱いていることがよく伝わる作画だった。
原作ゲームでは主人公の一人称視点で描かれるために、クライマックス付近を除くと晴子の心情描写は薄くなりがちであったが、三人称視点で描かれることで明確になっていたように思う。

ところで、観ているうちに思い出したことがある。
出崎統が監督をしているビデオアニメ『ブラック・ジャック』の第10話「しずむ女」だ。
ヒロインがその土地に伝わる、男女の悲劇的な恋の伝説を口ずさみながら話が進み、その伝説をなぞるようにヒロインは恋をして果てる。
そして主人公はそれを受け止めて去る。
『 AIR 劇場版 』によく似た展開ではないか。
出崎統が『 AIR 劇場版 』の監督を引き受けたのには、その経験がどこか関係しているんじゃないかと考えるのは想像が過ぎるだろうか。

まとめ

原作をプレイしたことがある人なら違和感があるだろうがそこそこ楽しめるだろう。
ただしゲームとは別物と割り切って、クリアな頭で作品に接しよう。
行列に並んでまで観るほど必死になる必要はない。
友人に DVD を借りて観るくらい力を抜いて観るのがちょうどいい作品である。

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